2011年8月22日月曜日

共通点

進撃の巨人がもつコミュニティの若者宿的空気を考察していて、そういえばオットーもわたしも家族以外のコミュニティを体験していたのだと気づいた。

2011年6月10日金曜日

Ich werde wie du

情熱大陸の伊集院静で思い出した歌がこれだ

Wenn ich am Morgen schon die Sonne seht,
denk ich zurueck and das ferschprechen das for immer zaelt,
"ich will werden so wie du"

無頼派がたのみにするルールは仁義

2011年5月1日日曜日

茫漠たる自由な定義の時代において

新しい定義(視点)の発見と提示が贈与にもなり、呪詛にもなり、新しい社会の創造と発展となる

2011年4月20日水曜日

時間がたつということさえ学ばなければいけない生き物

人間はそのままでは「時間が経つ」「物事は変化する」ということすら分からない
人間は学び続ける生き物
(脳科学的にどういうことなのか知りたい)

差別することについて、優越感について気になる
もっと理解する

文化に応じた起爆装置があるのだ
情緒と不可分 私はドイツ語で起動する もっと試してみる

気軽に軽くちを言いあえる友達と有意義なことをする
かろやかに 応分のペースで

スイッチなどはごまかせてもペースはごまかせない

バイブレーションを上げる
恐怖は人を深く起動させる(同時に疲弊もさせるけれど)

ギャップのある次元で差別することなくそこでの出来事を表現する

深い次元では分かっていてもしてほしいこと、いってほしいことがある

子ども、人に触れる恵み 他者との対話の喜び

見つけた

旅に出て、外から見た自分の世界を語る言葉と、内から外を語る言葉を探した。

現在必要な言葉がみつかったようだ。

苦しい旅だった。

途中から何を探しているのかさえ分からなくなったが、多分奇跡によって見つけさせてもらった。

言葉は不自由だが、言葉でしか記憶できないので記しておく。

状況や言語から、人間は自由になれる。

愛され愛しさえすればいい

2011年2月18日金曜日

萌えとは

自己抑制をかけている対象への愛着。

清少納言→父の娘型
紫式部→母の娘型

私?
社会的存在の中の生命の息づきを掬いあげた新井素子型。

大島弓子

中高生のころ、何度も読んだはずなのに、全然頭に残っていない。

その頃はまだ日本語が上手くなかったのと、テーマが「生命」だったからかと思う。
中高生のころは自分と「生命」が未分離のまま生きていたので。

あ、言葉が上手くないことと「生命」と未分離であるということは表裏一体だわね。

言葉が上手=社会化されているということ。
まれに、生命と密着したまま社会化されている人もいるけど、そういう人は作家や名のある人になれているわね。最近だと、ニューエイジ方面に「つながった」と感じる人もいるみたいね。ぴったり一致している人が「悟った」人なのでしょう。

人間は、自分の与えられた社会的地位=期待される振る舞い=言葉が、自分が生きる時代の言葉や目指すべき振る舞いと一致するとは限らないので(極端な例では軍人さんが、平和な社会になかなか適応できない、など)、日々、気持のいい言葉や行動ができるよう努力が必要。
私の教会でも、繰り返し「聖書=神の言葉との対話が必要」と言っていた。

…教条主義的な言葉には説得力がない。言葉にこちらを併せるよう強制「されられた」感があるから、無意識に反発してしまう。

ところで観音様は、衆生の姿に自らをあわせて降りてきてくださるという。八百万の神様も、仏様の本地垂迹だという。
…議論の言語が衆生の間では発達していないのは仕方ないのね^^;

どんな言葉=期待される振る舞い(たまに宗教も含まれる)を身につけるか、は、どんな社会に適応したいか、だと思っていたけれど、社会に主体的に関わることもできるわけだから、「どの社会の人たちとコミュニケーションしたいか」と言い換えることにする。