風邪をひいてなにもできず、
連載当時は「全く話の内容がイミフ」であることを「わたしって大人じゃないのなー」と引け目を感じていた「月の夜星の朝」の35歳版をwebで読んで、
しみじみときめきトゥナイト派で良かったと思い、
現代人たちはそりゃー死ぬまで愛だの恋だのうつつぬかしているわけだと半ば悟り、
実写映画で主人公の相手役が坂上忍だったことを知って
もはやギャグだとしか思えない。いいよもうギャグで。
2016年9月30日金曜日
世界がわかりやすくなった!!!
瞑想をして頭がよくなったかとかメンタルが強くなったかとかは当社比なので客観的には分からないが、時々、ああこの文脈以前より分かる!!ということにであう。
おそらく書いている人にとって「徳」は一般常識なのだろう。が、わたしには最近構造が分かってきた言葉です。これとか。最後のまとめの3項目め、以前なら読み流したでしょう。
http://www.ikedahayato.com/20160930/66145009.html
蛇足で初心者のヴィパッサナー瞑想体験記。楽しい。
http://srdk.rakuten.jp/entry/2016/09/29/110100
おそらく書いている人にとって「徳」は一般常識なのだろう。が、わたしには最近構造が分かってきた言葉です。これとか。最後のまとめの3項目め、以前なら読み流したでしょう。
http://www.ikedahayato.com/20160930/66145009.html
蛇足で初心者のヴィパッサナー瞑想体験記。楽しい。
http://srdk.rakuten.jp/entry/2016/09/29/110100
2016年8月22日月曜日
2016年8月6日土曜日
こんなところにマインドフルネス
と、ティク・ナット・ハン師
http://tnhjapan.org
生田の3年生だった1995年から何年間か、少なくとも2001年までは町田の「たべものや」さんに通っていた。いろいろな意味でお世話になっていました。
そこでティク・ナット・ハン師の名も耳にしました。どんな方かはその時は存じませんでしたが。
だから先ほどNHK「こころの時代」で番組を見たときは大変懐かしくも、そのような方なのだと知ることができ、よかったです。
http://tnhjapan.org
生田の3年生だった1995年から何年間か、少なくとも2001年までは町田の「たべものや」さんに通っていた。いろいろな意味でお世話になっていました。
そこでティク・ナット・ハン師の名も耳にしました。どんな方かはその時は存じませんでしたが。
だから先ほどNHK「こころの時代」で番組を見たときは大変懐かしくも、そのような方なのだと知ることができ、よかったです。
2016年7月28日木曜日
本日の所感
昨日は超人ロック「風の抱擁」、本日は、タイトル忘れた、恋愛ものの掌編漫画を読んだ。サマタ瞑想、的に←瞑想ギャグ
もとい。体が静かにしていたかった?その日のよい気分を継続したかった?
所感が、「愛情アウトプットは愛情タンクに注がれたカタチ…バイブレーションに添ってしまう」「与えられたもののなかからどういったバイブレーションを育てていくかは選択だが、それも経験値による」
「このことを日々忘れないようにしたい」
「あまり選べる気がしないが、瞑想と心がけでなんとかなるのだろうか」
尊いことをそのまま尊べるようになりたい。
心のどこかに「対象を見下す気配があること」に気づいていたい。その正体を知りたい。
もとい。体が静かにしていたかった?その日のよい気分を継続したかった?
所感が、「愛情アウトプットは愛情タンクに注がれたカタチ…バイブレーションに添ってしまう」「与えられたもののなかからどういったバイブレーションを育てていくかは選択だが、それも経験値による」
「このことを日々忘れないようにしたい」
「あまり選べる気がしないが、瞑想と心がけでなんとかなるのだろうか」
尊いことをそのまま尊べるようになりたい。
心のどこかに「対象を見下す気配があること」に気づいていたい。その正体を知りたい。
ヴィパッサナー瞑想をした初歩の所感
前提
ヴィパッサナー瞑想の 瞑想、五戒を守る生活、慈悲の瞑想 をバランスよく修行することによる精進、は、違う形でこれまで少しずつ体得していたような気がする。
課題は、やはり「怒り」の定義。
輪廻転生の世界観における「怒り」のチェターナーについては初耳だった。
これが本当に画期的で、なぜ日本人の「みんな」は「笑って」いるのか、なぜ「そんなに怒らないで」と諭されるのか、初めて納得のいく解を得られた気がする。
「不善心処」程度だと、仏教哲学の一部として「理解」できる。
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
しかしその背後の理由が、根本的には怒らないため、なぜ怒らないかは、業を深くしないため、ということが、不文律というか、「なぜ?」と問うてもなかなか出てこなかったのだ。
「怒り」のままでは未分化で、幼いと「興奮」と見分けがつかない。
見いだして、分化させていくことが文化の課題であり、タブララサを「人間」と為す要諦。
ああ。
だから「石原都知事と一戦交える」に失望したのか←これは多分慢でしょう。
ヴィパッサナー瞑想の 瞑想、五戒を守る生活、慈悲の瞑想 をバランスよく修行することによる精進、は、違う形でこれまで少しずつ体得していたような気がする。
課題は、やはり「怒り」の定義。
輪廻転生の世界観における「怒り」のチェターナーについては初耳だった。
これが本当に画期的で、なぜ日本人の「みんな」は「笑って」いるのか、なぜ「そんなに怒らないで」と諭されるのか、初めて納得のいく解を得られた気がする。
「不善心処」程度だと、仏教哲学の一部として「理解」できる。
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
しかしその背後の理由が、根本的には怒らないため、なぜ怒らないかは、業を深くしないため、ということが、不文律というか、「なぜ?」と問うてもなかなか出てこなかったのだ。
「怒り」のままでは未分化で、幼いと「興奮」と見分けがつかない。
見いだして、分化させていくことが文化の課題であり、タブララサを「人間」と為す要諦。
ああ。
だから「石原都知事と一戦交える」に失望したのか←これは多分慢でしょう。
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