前提
ヴィパッサナー瞑想の 瞑想、五戒を守る生活、慈悲の瞑想 をバランスよく修行することによる精進、は、違う形でこれまで少しずつ体得していたような気がする。
課題は、やはり「怒り」の定義。
輪廻転生の世界観における「怒り」のチェターナーについては初耳だった。
これが本当に画期的で、なぜ日本人の「みんな」は「笑って」いるのか、なぜ「そんなに怒らないで」と諭されるのか、初めて納得のいく解を得られた気がする。
「不善心処」程度だと、仏教哲学の一部として「理解」できる。
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
しかしその背後の理由が、根本的には怒らないため、なぜ怒らないかは、業を深くしないため、ということが、不文律というか、「なぜ?」と問うてもなかなか出てこなかったのだ。
「怒り」のままでは未分化で、幼いと「興奮」と見分けがつかない。
見いだして、分化させていくことが文化の課題であり、タブララサを「人間」と為す要諦。
ああ。
だから「石原都知事と一戦交える」に失望したのか←これは多分慢でしょう。
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