2011年2月18日金曜日

大島弓子

中高生のころ、何度も読んだはずなのに、全然頭に残っていない。

その頃はまだ日本語が上手くなかったのと、テーマが「生命」だったからかと思う。
中高生のころは自分と「生命」が未分離のまま生きていたので。

あ、言葉が上手くないことと「生命」と未分離であるということは表裏一体だわね。

言葉が上手=社会化されているということ。
まれに、生命と密着したまま社会化されている人もいるけど、そういう人は作家や名のある人になれているわね。最近だと、ニューエイジ方面に「つながった」と感じる人もいるみたいね。ぴったり一致している人が「悟った」人なのでしょう。

人間は、自分の与えられた社会的地位=期待される振る舞い=言葉が、自分が生きる時代の言葉や目指すべき振る舞いと一致するとは限らないので(極端な例では軍人さんが、平和な社会になかなか適応できない、など)、日々、気持のいい言葉や行動ができるよう努力が必要。
私の教会でも、繰り返し「聖書=神の言葉との対話が必要」と言っていた。

…教条主義的な言葉には説得力がない。言葉にこちらを併せるよう強制「されられた」感があるから、無意識に反発してしまう。

ところで観音様は、衆生の姿に自らをあわせて降りてきてくださるという。八百万の神様も、仏様の本地垂迹だという。
…議論の言語が衆生の間では発達していないのは仕方ないのね^^;

どんな言葉=期待される振る舞い(たまに宗教も含まれる)を身につけるか、は、どんな社会に適応したいか、だと思っていたけれど、社会に主体的に関わることもできるわけだから、「どの社会の人たちとコミュニケーションしたいか」と言い換えることにする。

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